post-truth時代での「用の美」再考


単純な話、一日でヤカンを「お湯を沸かす」という本来の目的で使用するのは朝と晩くらいだと思う。じゃあ使っていない時間のヤカンは何?と言われればそりゃ「置物/オブジェ」というのが妥当じゃないか。お湯を沸かす数分間を数回、使っていない時間を円グラフにして一日の状態をデータにするのであれば多数の人がお湯沸かし器具ではなく置物と認識するだろう、言い換えるとお湯「も」沸かせるオブジェとも言える。この状況を有意義に活用するためにはちょっと雰囲気の良いヤカンを台所に置くと何故かコーヒーも3割増しで旨くなる。何故だろうか。

 
この辺の問題は日本も大正時代に民芸運動という取り組みが行われており、上記のようなテクニカルな要因ではなくコーヒーがうまくなる心の充足を「用の美」という側面でとらえている。もちろん「機能美」も必要で使用感の充足、デザインにとらわれず機構や仕組み事態が美しい場合もある。なんにしても僕たちは道具が大好きで毎日何らかの器具、道具を用いている。これはむかしむかし人類初めてのイノベーションである「道具」の発明から続くストーリーでもある。たとえば古代の石斧は身体を(拳だったり歯だったりを)初めて外部化したものと考えられる。今の寿命を生きる人間は身体と今のテクノロジーを使った道具によって生きているとも言える。逆に身体だけでは現状はあり得ない。さらに言うと道具/外部化(スマホとか原発とかなんでもかんでも)で寿命も変わるってことなのかもしれない。

 

ずいぶん昔の話。狩猟採取民族の時代は武器も家も使い捨て、家も道具も必要な時に作るし終わると捨てる。自分で作るというのが前提になっているのだけど、立ち回りとしては「世界を黒いクレジットカード一枚持って飛び回っている裕福な人間」と同等にも見える。道具に縛られるという言葉通り、完全に合理化して道具を操る事(使うも捨てるも)はある意味自由で豊かなのである。物質というのは怖いもので持っている物で自身の属性や立ち回りを拘束してしまう。反対に言ってしまえばそれは逸品や名品とも言えるし、うまく使えばジェームズボンドのようにモノ・クルマ・オンナが抽象的にヒーロー像みたいなのをでっち上げることができる。

 

じゃあ今はどうなんだ?1万円の竹製のザルと100円のプラスティック製ザル。どちらも機能は同じ。買う権利は誰にでもある。9900円の差額はどんな説明になるんだろうか「同じ機能のくせに竹ってだけでだまそうとしてるんじゃないか?」と思われても仕方がない。たぶんここで一つの方法は「ジェームスボンド的」だろう。(マティーニを注文する感じで以下)熟練の竹職人が日本の伝統工芸である竹を編む技術で・・・。こういう感じになるかもしれないんだけどいい加減この辺のハッタリは擦り切れた。この製品の「こわだり」は何ですか?この辺の言葉も「素人くさいやつがテクニカルターム(語術)をツギハギして煙に巻くダサ論法」というのがチラチラしている。これも擦り切れるだろう。ここら辺の話は作っている僕たちがもっと別の方法を考えていく必要があって、製作者のくせに物(素材)やら言葉(技巧)やらにがんじがらめになってないのかと思っている。そもそも惚れてない人に何言ってもダメだし、僕たちはなんでコレに惚れてるのかをもうちょっと考えるべきだと思ったんだ。グダグダ説明するときは言い訳してるときじゃないか?

 

重要なのは伝統的な何々を作っているということじゃない。こういうのはAIとかロボットとかの仕事でもできると思うから、こういうことにとらわれるべきじゃないと考えてる。だから職人とかそういうことじゃなくて、その手で創造できる世界があるのならその手技やら扱う素材やらを「こだわらず」に君ができるように扱う事なんじゃないだろうか。だったらそれはもうアーティスト(芸術活動)だからメーカー(生産者)としてある姿なの?と思ったかもしれないけど、本来そんなもんで、古来からいろいろな技術はあったけど、昔の人は物を作ることや発明をする才のことをアートと呼んでいた。だから技法をもっと個人の領域に、個人のユニークな才気としてそういうアイデアがまとまっていってパターン化して製品になって。状況や人数によってルーティンも変化して。こだわらずにどんどん形を変えていって、そのちょっとしたアイデアと素材を組み合わせて進化をしていけば良いのではないかと思う。ジェームスボンドは放っておいて狩猟採取民族を習ってね。

 

 

 

 

 

ポスト真実の政治

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